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「アウラ」のアウラに目を凝らす - ベンヤミンや「複製技術時代の芸術作品」などをめぐって

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「アウラ」という言葉を目にするとつい身構えてしまいます。

20 世紀前半のドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミン由来のこの言葉は、時に氏の論文「複製技術時代の芸術作品」1とセットで、主に芸術作品の芸術性をめぐる議論で参照されます。たとえば次のように。

裕福な少数の人びとの手の中にあった藝術がもっていた独特の高級感(それをベンヤミンは「アウラ」[光輝]と呼びました)2
(佐々木健一美学への招待 増補版』(中央公論新社)電子書籍版、第四章 コピーの藝術 > 2.二つの意味の複製)

あるいは次のように。

20 世紀を代表する哲学者のひとりであるヴァルター・ベンヤミンは、複製技術が普及する近代以前の時代を考察し、複製不可能な芸術が持っていた「いま、ここにしかない」という「1回性」や「礼拝的価値」を「アウラ」と呼び、映画や写真が芸術の「1回性」を喪失させ、芸術そのものが世俗化していくことを肯定した。

オリジナルの優れた芸術が備える、その作品を芸術たらしめるなにか――芸術方面での使われかたはおおむねこのようにまとめられるように思います。

身構えることなどなさそうでしょうか? ベンヤミン自身の説明を引いてみましょう。

そもそもアウラとは何か。空間と時間から織りなされた不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである。夏の午後、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは憩っている者の上に影を投げかけている木の枝を、目で追うこと――これがこの山々のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである。

その少し後ではこう記しています。

対象をその覆いから取り出すこと、アウラを崩壊させることは、ある種の知覚の特徴である。

これだけからでも次は言えます。

  • ベンヤミンは(芸術)作品固有のものとはしていない
  • 見られる対象だけではなく見る側も関係するとしている

身構える理由、察していただけますでしょうか。

好んで用いながら、しかし「アウラ」を分析概念として精緻化しようという志向はベンヤミンには見られません。写真登場初期に撮影された肖像写真に見いだすアウラ(「写真小史」)はガラスでできた事物にはないとし(「経験と貧困」)、「商品において、それに固有のアウラを現象させることをボードレールは企てた」(「セントラルパーク」)と語り、直観の対象のまわりに集まろうとするさまざまな表象を対象のアウラと呼びます(「ボードレールにおけるいくつかのモチーフについて」)。その用いかたに一貫性を見出すのは困難です。

アウラの評価も一貫しません。「写真小史」や「複製技術時代の芸術作品」ではその喪失をポジティブにとらえる一方、その他の用例では喪失を惜しむトーンが滲みます。「アウラ」という言葉を本格的に用いた「写真小史」(先の「複製技術時代の芸術作品」からの引用は「写真小史」からの自己引用でもあります)のころにはすでにベンヤミンの思想にはベースとなるユダヤ神秘主義に加え共産主義が色濃くあらわれるようになっていますが、両者の止揚が容易ならざることはあきらかです。その矛盾が影を落とす先にベンヤミン言うところの「アウラ」という言葉もあるように私などは思うのです。

現在巷で見かける「アウラ」という言葉がこういった背景までうかがわせるように使われることはほぼありません。まるで日本語では他に見かけない表記にまとわりつくアウラに書き手が魅了されているかのように私には思えます3。一度世に流布した言葉というものはそうやって出回り続けるものなのでしょう。

しかし「複製技術時代の芸術作品」と共に持ち出してアウラを肯定的に評するのであれば、それはベンヤミンの論の趣旨に真っ向から反します。ベンヤミンは映画(「複製技術時代の芸術作品」)や写真(「写真小史」)のアウラの喪失にあたらしい芸術のありかたと同時にファシズムや資本主義への抵抗の根拠を見いだしているからです。マルクス主義なり共産主義なりが失効したとしても、それは抵抗の根拠の無効化を意味しません。むしろ、いまここにおいてその根拠の必要性はますます高まっているのではないでしょうか。アウラの素朴な肯定がきわめて反動的な意味を持ちうる恐れにに対してはいくら警戒しても警戒しすぎることはありません。

「複製技術時代の芸術作品」は優れた論文とは言い難い面があり、当時からベンヤミンの親しい友人のテオドール・アドルノやゲルショム・ショーレムによる批判があったと言います。しかしアクチュアリティを失っていない論点、むしろ高まっていると考えられる論点も多く、三島憲一氏は「今ではそっとしておいた方がいいかもしれない」(三島憲一『ベンヤミン 破壊・収集・記憶』(岩波現代文庫)p.462)とまで述べていますが、私はあらためて・そして何度でも読み直すに値する論であると考えます。作品と作者と人々の関係はいつの時代であっても常に問い直されなければなりません。

「アウラ」に関心を持たれる方々が、同じくらい「複製技術時代の芸術作品」の数多くの論点――オリジナルの存在しえない作品のありかたや編集可能性、送り手と受け手の境界の溶解等――にも関心を持たれますように。

*1: ベンヤミンのテキストの邦題は訳者によって異なることがあるが、本稿ではちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション』シリーズの題を用いる
*2: 続けてベンヤミンの複製技術にまつわる「議論には、根本的な誤りがあります」とする佐々木氏の論述は入門書にしても粗雑と言わざるを得ない
*3: 山口裕之氏は『ベンヤミン メディア・芸術論集』(河出文庫)他で「オーラ」と訳出している。一つの見識と言える

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