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「あたりまえ」でないこと

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 シリアスな場面で「あたりまえ」と普通に、平気で、あたりまえに言える人と同席すると居心地の悪い思いをする。「会社員としてあたりまえ」「社会人としてあたりまえ」「日本人としてあたりまえ」「人間としてあたりまえ」……

「あたりまえ」をあたりまえと言える人はそのことに迷いがない。疑いがない。そして、その言葉が裡に(しなければならない)という意味を隠し持つことに気づいていない。悪気も自覚もない。
 だから、口を挟む余地がない。取りつく島がない。

 しかし、あたりまえであることはあたりまえのことなのだろうか。

 あたりまえであろうとするためにその場の社会的役割から逸脱しないよう振る舞いを意識して調整する人もいる。さまざまな事情によってあたりまえに振る舞うことのできない人もいる。

 多くの人にとってのあたりまえは、すべての人にとってのあたりまえではないかもしれない。
 そのことを意識せず、あるいは無視してあたりまえと言ってしまっては、すくなくないことを切り捨ててはしまうのではないだろうか。

 居心地の悪さを覚えるのは、たぶんそう思ってしまうからだろう。

 その居心地の悪さが共有されるとは思えない。あたりまえのことではないだろうから。
 せめて居心地を悪く感じていると伝わればいいのだけれど――そう思うこと自体も、あたりまえのことではないのだろうけど。

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