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西村佳哲『自分の仕事をつくる』を読む(2): 「まえがき」

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まずは「まえがき」から文章を拾いあげてみよう。

教育機関卒業後の私たちは、生きている時間の大半をなんらかの形で仕事に費やし、その累積が社会を形成している。私たちは、数え切れない他人の「仕事」に囲まれて日々生きているわけだが、ではそれらの仕事は私たちになにを与え、伝えているのだろう。(p.5)
様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ」という、人を軽くあつかったメッセージを体現している。(p.6)
「こんなものでいい」と思いながらつくられたものは、それを手にする人の存在を否定する。(略)人々が自分の仕事をとおして、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられているような気がしてならない。(p.6-7)
しかし、結果としての仕事に働き方の内実が含まれるのなら、「働き方」が変わることから、世界が変わる可能性もあるのではないか。(p.7)

こうした問題意識から、筆者はさまざまな人の働きかたを訪ねはじめる。

 筆者の本業が建築やデザインということもあって、『自分の仕事をつくる』のとりあえずの焦点はものづくりにあてられている。しかし仕事もまたコミュニケーションのひとつの形態であるわけだから、ものというメディアがなくともその本質は変わらないと言えよう。事務であっても間接部門であっても働きかたはひとつの課題と成りうるに違いない。

先走って書けば、この本には欠けている議論がふたつある。ひとつはコストについて。もうひとつは工業規格製品のような誰が作っても同じとなるものとのかかわりかたについて。
 前者に関しては、そのことをもってこの本を批判するのはたやすい。私自身低コストのものを無碍には否定できないと考える。限られた資金をやりくりする中では最低限の機能を満たすものを選択せざるをえないこともあるからだ。その意味では選択肢は多いにこしたことはない。
 しかしコストカットは妥協をともなうことがままあり、妥協は「こんなものでいい」という意識に容易に転化する。圧力が高ければなおさらだ。その上コストカット競争の結果選択の幅が狭まってしまっては本末転倒だ。
 もっともこうしたことを考えはじめると問題は働きかたの範囲をおおきく超える。念頭には置きつつも、とりあえずは措いておくことにしよう。

後者も考えるのはやっかいだ。誰が作っても同じということは作る人間も交換可能ということを意味する。しかし仕事というものは多かれ少なかれそういうものだ。おそらく万人を納得させる回答などなく、どのようにバランスを取るかを個別の現場に即して考えなければならないのだろう。こちらもとりあえずは措いておくことにする。

棚にあげておくことばかりだが、この本自体はそこまで話を広げたりはしていない。主眼はあくまで働きかたの現場のレポートだ。よく考えてみると体験以外で仕事の現場を知る機会はあんがいない。であるなら知ることそのものが自分の働きかたを振りかえり相対化するきっかけになると言えるかもしれない。知った働きかたが「『こんなもんで』という力の出し惜しみ」(p.6)のないものであればなおさらだ。
 さて、そううまくいくものかどうか。引き続きつきあってみることにしよう。

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