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西村佳哲『自分の仕事をつくる』を読む(5): 「1. 働き方がちがうから結果もちがう」 - 「象設計集団を北海道・帯広に訪ねる」

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建築の世界にあまり明るくない私も象設計集団の名前は耳にしたことがあった――沖縄県名護市庁舎の設計者として。しかしそれもずいぶん前のこと、もう活動していないだろうと漠然と思っていたので、この本でその名を目にしたときには失礼ながら意外な気がした。しかも事務所は北海道の帯広。廃校になった小学校を驚くほど安く借りうけているという。町山一郎氏は言う――「『そんなにお金がなくても大丈夫』」となれば、やっぱり気楽に生きていける」(p.41)。この言葉は時間にかかわる。続く西村氏の文章を引いてみよう。

手間暇を惜しまない仕事。こうした働き方が可能なのは、彼らが「時間」という資源を多く持っているからだ。そしてその「時間」は、仕事場の立地を選択することで、意識的につくり出されたのである。(p.47)
過去の時代に人間が手がけてきた仕事をふり返るとき、もっとも強く感じるのは、そこに投入されている「時間」の厚みだ。仕事量の違い、といってもいい。(p.47)
 デザインに限らず、多くの仕事の現場で効率性が求められている。しかし、なんのために? 大半は経済性の追求にあって、仕事の質を上げるための手段ではない。もちろん速度や勢い、リズムは、いい仕事には欠かせない要素だ。しかし経済価値と、その仕事の質的価値では、ベクトルの向きが最初から異なっている。
 合理的であること、生産的であること、無駄がなく効率的に行われることをよしとする価値観の先にあるのは、極端に言えばすべてのデザインがファーストフード化した、グローバリズム的世界だ。そのゲームから降りて、仕事の中に充実感を求める時、私たちには「時間」を手元に取り戻す工夫が求められる。(p.49)

時間については先の節で深澤直人氏も触れていた。
 時間をかければかならずいいものができる、とは断言できない。ものによっては最初のインスピレーションがベストということもあるからだ。しかしそのインスピレーションを検討する時間はあったほうが望ましいとは言える。それにかけた時間の蓄積は次につながりもするのはまちがいない。
 ではそのような時間はどうすれば取りもどせるだろうか。象設計集団の取った事務所移転という方法は誰にでも可能な選択ではない。建築の設計事務所という事情は無視できないし、実績というアドバンテージはクライアントに遠くまで足を運ばせる力を持っているからだ。凡百の会社員が同じことをすればどうなるかはなんとも言えないとしか言いようがない。成功例も失敗談も世の中にあふれていて一般化など到底できない。そのあたりを考慮せずに環境の変化を解決策としてしまっては雇用の流動化の称揚とほとんど変わらない言説になってしまうだろう。
 そもそもなぜ時間をかける仕事がむずかしくなっているのだろうか。西村氏はその理由を経済性や効率性の追求に求めている。そうしたもろもろの条件をとりあえず「売る論理」とまとめておくことにしよう。
 売る論理が時間をかけるのを許さないのはそうすると競争に勝てないと考えられているからだろう。同じものなら早いほうがいいという言葉に反論するのはむずかしい。しかしこのような接続は時間という単一の評価軸によってものの多様な評価軸を捨象しているのではないだろうか。一口に「同じ」とは言えないものを競争が痩せ細らせてしまっている、そんな光景はありふれてしまっているように思う。ものづくりとは豊かさを生みだすものであるはずなのに。
 こうした売る論理と作る論理の対立、と言ってしまって言い過ぎであれば齟齬、はどうすれば解消できるだろうか。持続可能な成長というような言葉が脳裡をよぎらないでもない。しかしそれはオルタナティブの提示にはなりえても解決の手段とはならない気がする。容易には実現しそうにないからだ。現在の課題を異化する力はあるにしても。
 では現在の課題にはどう取り組みうるのか。簡単で即効性のある答はとても出せそうにない――せいぜい売る論理の単純化を粘り強く指摘しつづけることくらいしか。いまはひとまずその実践に変化への期待をつなぐことにしよう。

最後にひとつ不満を述べると、「『時間』を手元に取り戻す工夫」についてはもっと具体的に語られるべきであった。何ができるか、何が可能であるかはその語るいとなみの中から立ちあらわれるのではないだろうか。それを共有するためにも手がかりは多いほうがいい。仕事の現場から考えるためにもこの点は課題としたい。

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